先日、草津温泉に行った折、山頭火のことが気になって、再度草津温泉に。ワタクシの定宿「極楽館」に泊る。ここは、小さな旅館で、美味なる食事、ここだけの源泉「大日の湯」があり、泉質も良い旅館です。あんまし教えたくない。
ということで、草津温泉と山頭火好きな方への、山頭火探検隊のリポートです。パチパチ。だらだら長く、あっちこっちに飛ぶリポートですから覚悟を決めて読んでください。
うしろすがたのしぐれていくか (山頭火)
この有名な写真は、草津温泉とはまったく関係がありません。この有名な写真は、下関・長府の吉岡家長屋という長府藩馬廻り要職の大久保五郎左右衛門の元屋敷で撮られたもの。撮影者は、30歳も年下の弟子、近木圭之介氏。撮影日は、昭和8年6月。草津に来る3年前ということになる。
ちなみに「うしろすがたのしぐれていくか」の句は、昭和6年12月31日の日記に、自嘲ということで、記されています。
昭和11年(1936年)5月21日、信州から草津に向かった山頭火は、草軽軽便鉄道・吾妻駅から電車に乗り込み、夕方に草津温泉駅に到着。草津温泉には、25日までの4日間滞在しました。
山頭火が草津まで行った「草軽電気鉄道」というのは、現在は廃線になっていますが、軽井沢から草津まで走っていた鉄道路線。昭和37年に廃止されるまで、高原を走る列車として親しまれていました。
当時のルートは、「新軽井沢-旧軽井沢-三笠-鶴留-小瀬温泉-長日向-国境平-二度上-栗平-北軽井沢-吾妻-小代-妻恋-上州三原-湯窪-万座温泉口-草津前口-谷所-草津温泉」。
(当時の軽井沢駅)
草軽電気鉄道、全長55.5kmを3時間30分で、えっちらおっちら疾走した機関車は、現在の軽井沢駅前に展示してあります。愛称は「かぶと虫」。
大正13年に信越電力から購入した、アメリカ、ジェフリー社のL型電気機関車デキ12型」。なんとなく、味があります。この模型は、草津温泉に入る手前の道の駅の売店にも展示してあります。お土産品に囲まれちゃってちょっと迷惑げ・・・。
草軽電気鉄道が、現在の草軽交通株式会社で、ここのホームページには「公式資料室」というページがあり、ここには当時の「時刻表」「切符」「運賃表」「路線図」など貴重な資料が掲載されています。山頭火が乗車した雰囲気がなんとなく伝わってくるような。
山頭火が降り立った、昔の「草津温泉駅」は、「草津温泉ホテル東急」の前の「浅間台公園」にありました。
それを記念する碑が残っています。山頭火は、ここに降りたったわけです。
碑の足元に、レールが!!碑の正面の下に、突き出すように二本のレールがありました。「ナロー」という軌道の幅はとても狭いし、とても細いレール。
■草津温泉駅跡の碑文
草津温泉駅は、長野県軽井沢町と群馬県草津町を結ぶ草軽電気鉄道55キロ241メートルの群馬県側始発駅として大正15年9月18日に開業し発展途上にある草津温泉の表玄関として多数の浴客や地域住民の乗降を主体とし硫黄薪炭等地元生産物の発送と各種建築貨材食料など生活必需品の到着した懐かしい駅でもあったが交通事情の変革により昭和37年1月31日同電鉄の廃線のため37年間の営業を閉じた昭和58年11月吉日 草軽交通社友会 草津町有志 建立
著名な、旅行作家・宮脇俊三は「失われた鉄道を求めて」(文春文庫)という本で、草軽鉄道を旅したことを書いています。
この間の山頭火の行動は、山頭火の日記「其中日記」の昭和11年に詳しい。ワタクシの持っているのは、春陽堂書店発行の山頭火文庫10「山頭火 日記(六)」。以後は、ここからの引用です。
この昭和11年という年は、激動の年で、日本では2.26事件が起きたり、遠いスペインでは2月に人民戦線内閣が誕生。7月にはフランコがクーデタを起こしそれに対して市民が背広姿で銃を持って闘った市民戦争が始まった年。マドリッドで、ドゥールティが亡くなったのもこの年の11月。
(中央が、ブエナベントゥラ・ドゥルティ)
寄道しますが、ドゥルティは、スペイン市民戦争の伝説的英雄で、内戦勃発後4ヶ月たらずで、命を落とした。その死の真相は未だ明らかになっていない。彼の死をテーマにして小説にしたのが、逢坂剛。彼の「マドリード通信」という短編集のなかに「ドゥルティを殺した男」という短編が収められている。
最近出た、文春文庫の「マイベストミステリー2」の中にも収められています。
阿部定が、チンポちょんぎり事件を起こしたのもこの年の5月18日。7月には、上野動物園のクロヒョウが逃げ出し大騒ぎになるなど日本も世界も騒然とした年でありました。
そんななか、山頭火は、昭和10年の暮れから『旅に出た・・・死に場所をさがしつつ』と死に場所を探す放浪の旅をすごした年でありました。
4月には東京。『ほっと月がある東京に来ている』(山頭火/4月4日)。4月7日は浅草に『浅草風景。定食八銭は安い、デンキブランはうまい、喜劇は面白い。あてもなくぶらぶらあるく。』
4月中は、東京や伊東などを往復して過ごし、5月にはいると新宿から八王子に。そして甲州をすぎて信州に。岩村田に滞在し周辺を歩く。
5月11日には軽井沢に入り、周辺を探訪しながらすごしました。『軽井沢駅前の噴水の味は忘れられない』と記しています。宿泊は、軽井沢駅前の旅館に。有名な『あるけばかっこういそげばかっこう』の句は、5月17日の日記に書かれています。
先日、ワタクシが軽井沢の「土屋写真店」で300円で購入した写真。山頭火が訪ねた昭和11年5月から3ヶ月たった8月の中仙道、旧軽井沢銀座通りの風景が写っています。現在の「どんぐり共和国」の前から撮影しています。郵便局(現観光会館)の右のアーケードのところが、今の「テニスコート」入り口。こんな風景の中を歩いていました。
5月21日に岩村田を出発し、御代田駅まで歩く、そして沓掛まで汽車に乗り、それから歩けるだけ歩き長倉山の頂上をすぎ、「峯の茶屋」で昼飯。
浅間村牧場、北軽井沢駅を通り、「吾妻駅」から電車で草津に。運賃は、五里74銭は高いようだが、登りなのでなるほどと納得したりする。6時頃に草津に到着。「富山館」に宿をとる。一泊70銭、湯銭12銭。
山頭火が乗った「草軽電気鉄道」。この写真も、軽井沢の「土屋写真店」で300円で購入。「かぶと虫」は、四輪駆動で走り、時速は20km。一両の客車に、貨物車を連結。貨物は、草津からの硫黄を軽井沢まで運んでいた。この写真の駅は、軽井沢三笠駅。
草津の宿の印象はというと、同宿の人は、病遍路、おとなしい老人。山頭火の草津の第一印象は悪い。『草津というところは何となくうるさい、街も湯もきたならしい、よいとこでもなさそうだ、お湯の中にどんな花が咲くか解ったものじゃない!』と手厳しい。
そして、草津最初の夜は、『熱い湯に入って二三杯ひっかけて、ライスカレーを食べて(これが宿の夕食だ、変な宿だ)ぐっすり寝た。夢は何?』という具合にすごしました。
翌、22日は、白根神社に参拝。『古風で、派手でないのがうれしい。』『何だかうるさいと思ったが、一日二日滞在しているうちに何となく好きになるから妙、しかし、何となくきたない。』という感想。
白根神社には、芭蕉の句碑も本殿の左側にある。草津温泉を発見したといわれる、日本武尊(やまとたけるのみこと)を祭る神社。みやげ店の立ち並ぶ湯滝通りから急勾配の石段を上った、温泉街を一望する丘の上にある。
芭蕉の句碑。「夏の夜や谺に明くる下駄の音」(芭蕉)
この句は芭蕉が元禄4年(1691年)京都嵯峨にいた門人去来の落柿舎で作られたもの。句碑は天保13年(1842年)、芭蕉の150回忌に建てられた。芭蕉は「山中・有馬・草津は扶桑の三名湯」と紹介しているそうだが、芭蕉が草津を訪れたというわけではない。山頭火は白根神社を参拝したが、日記には、芭蕉の句碑のことは、なぜか記載されていない。
芭蕉の句碑は、このほかに、湯畑から階段を登った「光泉寺」にもあります。
「山なかや菊は手折らぬ湯の匂ひ」(芭蕉)
句碑の文字は全く読めない。脇に草津町教育委員会の解説文が横に立っています。それには、『芭蕉句碑 草津町指定文化財 山なかや菊は手折らぬ湯の匂い 芭蕉が『奥の細道』の旅の途次、加賀の山中温泉で詠んだ名句で、山中温泉と並ぶ名湯草津温泉の効能をたたえたものと思われます。』との文章が。
湯があふれて川になっているのに喜び、山の水のつめたい美味しさ、湯の花、草津味噌を褒める。
午後には、宿のおかみさんに案内されて共同湯の「凪の湯」に入る。ここは気に入ったらしく『しづかなきれいななぎの湯というのへゆくねなるほど不便なだけしづかで、紙ぎれや綿きれがちらばっていない、しかし、ここもやっぱり特有の男女混浴だ、男一人(私に)女五人(二人はダルマ、二人は田舎娘、一人は宿のおかみさんだ)、ぶくぶく下から湧く、透き通って底の石が見える。帰途、一杯、また一杯、酔っ払っておしゃべり、それもよかろうではありませんか!ぼろぼろ どろどろ』と、気持ちよく酔っ払った山頭火の表情が思い浮かぶ。
「凪の湯」は、極楽館の近くにある。
温泉饅頭を朝から晩まで、ただでサービスする饅頭試食攻撃饅頭屋「長寿の店」の奥にあるひっそりとした共同湯。今は、男女別です。
お風呂は、熱い湯がふんだんに流れ、あふれている。
とても熱い。我慢して入る。饅頭屋の親父の話では、山頭火が入ったころの風呂は、深い風呂で、砂利が底に敷いてあってそこから西の河原からの源泉が湧き出していたそうだが、その後、砂利で埋めて現在のような深さの風呂にしたそうです。
『ちんぽこも おそそも湧いて あふれる湯』(山頭火)
この句は、山頭火が自選した俳句が収められている句集「草木塔」に収められています。山口の湯田温泉で詠んだ句ですが、草津での「凪の湯」の風景を彷彿とさせます。
5月23日は、雨。昨夜の泥酔を反省する。『滞在、昨夜の今朝で身心がおだやかでない。一切万落々漠々。私は何故時々泥酔するのか、泥酔しないではいられないのか。(中略)生死を生死すれば生死なし。煩悩を煩悩せずば煩悩なし。』
ワタクシも、夜、山頭火先生を偲び、先日訪れた「噴火ラーメン」に深夜、一人突入。
ここのマスターとは顔見知りになってしまいました。なんとワタクシと同年代。メニューは、ラーメンから焼肉までと幅広い。しかし、今日もお客はいない。
今回も、焼酎をホルモンをつまみに痛飲。
ラーメンも食べる。昔風のさっぱりとしたラーメンで、お酒を飲んだ後のラーメンとしては美味の部類。こうして、山頭火的泥酔を敢行をしたのでありました。合掌。
これも、山頭火の草津を体験するためでありました。天才の先人の後を追うだけでもツライ。さらに、合掌。
24日も雨。『よく降る、よく寝る、よく食べる、よく飲める、よく考える。・・・』と、草津雑詠として二句を記す。
『もめやうたへや湯けむり湯けむり』
『ふいてあふれて湯けむりの青さ澄む』
このうちの一句『もめやうたへや湯けむり湯けむり』は、道の駅に句碑がある。
翌25日は快晴。白根山を越えて万座温泉に。行程4里(登り3里、下り1里)の距離を朝7時半から3時までかかって万座に。万座温泉では「日進館」という宿に宿泊。一泊2食で1円。
【おまけ】
草津で山頭火が泊まった「富山館」という旅館は、すでに廃業しているそうですが、その場所はどのへんにあったのか興味が沸き、調べに「草津温泉旅館協同組合」に出かけました。
事務局の人がとても親切で、昔の資料を調べてくれて、山頭火が来た年の昭和11年11月30日発行の「天下の草津温泉」(大東京社)という小冊子を発見。
その冊子の最後に「草津温泉旅館一覧表」(昭和11年9月現在)というのが載っていました。コピーもいただきました。感謝感謝。
それを見ると、ありましたありました。パチパチ!「新田区」(しんでんく)にある20軒の旅館のうちの一軒として「富山館」も記載されていました。
住所が記載されていないので、詳細な場所は特定できませんでした。この当時の旅館は、風呂がある旅館のほうが少なく、「富山館」もそのような旅館のひとつでした。山頭火も「外湯」にでかけたのもそうしたわけでした。新田地区でも、20の旅館の中で「内湯」を持っていたのはたった一軒「吉野屋」という旅館だけでした。
ちなみにワタクシの定宿の「極楽館」も「泉水区」に「内湯」のある旅館として載っていました。パチパチ。
【おまけのおまけ】
その後、そうだ!「草津温泉観光協会」というのがあったなと気付き、メールで問い合わせをしたところ、な!なんと!また、親切に「富山館」があった場所を教えていただきました。
『場所は新田ではなく、上新田(現在の本町区)に富山館があったそうです。場所は、群馬銀行草津支店と大信というお食事処が入っている建物の間の細い道を入ったその周辺であったそうです。』とのこと。地図も添付してありました。
■「草津 観光・町歩きマップ」
『この地図のブルーの文字「ターミナル通り」の「タ」の文字の前から地図下の「中央通り」の「央」の文字に伸びている道の右側周辺にあったそうです。』とのことです。
本当に感謝感謝であります。「草津温泉観光協会」のK様、素早く鋭いご対応本当にありがとうございました。「旅館協同組合」の方もそうですが、「温泉観光協会」の方も、親切な対応で、また、草津が好きになってしまいました。
さらに、「草津町図書館」には、草津の歴史に関する本が揃っているとのことも教えていただきました。
今度、草津に出かけた折には、「富山館」のあった場所を尋ねたいと思います。草津温泉には、100名の有名人が訪れていたとのことですので、山頭火意外にも、探検をしたいと思います。温泉もよいけれどそれにまつわる文化や歴史がいっぱいの草津は、何度訪れても奥の深い町です。感謝、感謝の合掌。
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